歴史

開湯由来

開湯由来

養老二年、僧行基(行基菩薩)の開湯より千三百有余年の歴史ありし温泉。 銀山道中、十一里二十町八箇所の宿場中、随一の湯量と泉質を持つ。 江戸期、銀山最盛期には宿場の宿として栄えた歴史あり。 明治以降は、近郷農民の湯治場として親しまれ、以後は、越後一の温泉地、宿場として栄えたり。
(大湯温泉由来記より)

開湯後の歴史は不詳です。寛永18年に、湯之谷郷折立で百姓をしていた源蔵が、赤川表(現在の只見川)で上田銀山を発見すると、明暦3年から高田藩の裁量での採掘が始まり、また元禄2年には会津藩領側の白峰銀山で銀鉱が発見されました。これにより周辺には鉱夫、商人、職人、医者、遊女などが集まる鉱山町が形成されていき、最盛期には2万5千人を擁する壮大な都市に発展しました。大湯の温泉街は、三国街道の小出宿から銀山に至る街道である銀山道中の宿場町として活況を呈し、街道に設けられた8箇所の宿場町の中では随一の湯量と泉質を持っていたことから、大きく繁栄しました。江戸時代末期の安政6年に、手違いから大量出水し多くの犠牲者を出してしまうとともに、坑内全域に水が入り込み閉山となってしまいました。以後、大湯温泉は宿場町の機能が失われ、周辺住民の湯治場となっています。
現在、上田銀山の跡地は、奥只見湖の湖底に沈んでいます。


行基菩薩(天智天皇7年~天平21年)
奈良時代の高僧で、当時は仏教が朝廷内の天皇や貴族など限定的だったのに対し、禁止されていた一般庶民への仏教の布教を行った人物とされています。
特に、布教活動の拠点となる寺院や道場の創建だけではなく、数多の公共事業や慈善事業を行うことで、民衆から絶大な支持を受けていました。
当初これらの活動は、朝廷から弾圧されていましたが、その後、天皇や貴族から帰依されるようになり、日本で最初の大僧正となりました。
また、奈良の大仏の造立にも尽力し、東大寺の四聖の一人に数えられています。天平21年に喜光寺(菅原寺)で死去しました。享年は81歳でした。
全国には行基縁の寺院が数多く存在し、古代の日本地図である「行基図」を製作したとも伝えられています。

現在の大湯

福島県との県境、奥只見湖の西に位置し、駒ヶ岳より流れ出る佐梨川の河畔に湧き出る温泉地「越後大湯温泉」。
豊富な湯量と壮大な自然が魅力で、温泉街には個性豊かな旅館や飲食店が建ち並び、どこか昔懐かしい素朴な雰囲気も漂っています。
春の新緑、夏の尾瀬、秋の紅葉、冬のスキーや雪と、四季を通して大自然を楽しめ、足を伸ばせば総貯水量約6億トンを誇る日本最大規模の人造湖「奥只見湖」で、雄大な時間を存分に堪能できます。




すずらん通り入口

昭和中期の様子
昭和中期の様子
現在の様子
現在の様子



住吉屋付近

昭和中期の様子
昭和中期の様子
現在の様子
現在の様子



国道352号線沿道

昭和中期の様子
昭和中期の様子
現在の様子
現在の様子

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